此処では、二神半之助から始まり明治二一年に松井百太郎によって東京に伝えられた当流の歴史を、清漣館独自の調査に基づきご紹介します。
流祖 二神半之助正聴(ふたがみはんのすけまさあき)承応頃
(黒田藩 小林四郎左衛門組御馬廻 弐百石 二神九太夫 寛文頃)
竹内流の流祖竹内久盛の弟子であった父二神時成に竹内流小具足腰之廻と二神流を学んだ二神半之助は、さらに必勝の術を修得すべく諸国を巡り修行した。
承応の頃、舌間又七宗安(旧姓臼杵又七、豊後竹田出身、舌間与三右衛門重直養子)の斡旋により、筑前直方に永らく滞在、また吉野の山中に三十七日参籠し諸流の奥秘中より善悪を取捨して終に必勝の利を極め、二神流を改め双水執流組討腰之廻とした。
二神半之助正聴 元禄六年正月五日没
舌間又七宗安 寛文七年五月十三日没
二神半之助が葬られている寺
舌間家について
舌間家は大職冠藤原鎌足の後裔元宇都宮氏にして豊後国主大友の家臣となり
弁舌を以て名ありしにより大友侯より宇都宮を改め舌間の姓を賜うと、舌間家の初代を舌間河内守吉宗と云う。
二神半之助門人帳より以下の面々に相傳す
伊丹九郎左衛門 直方藩 御家老 千三百石
廣瀬五大夫 直方藩 御足軽頭 弐百石
谷口左膳 直方藩 御納戸 百五拾石
有元弥左衛門 直方藩 御中老 弐百石
永島彦之丞 直方藩 御旗奉行宗旨奉行兼 百弐拾石
森惣右衛門 直方藩 御馬廻 百石(勘定奉行 百石 正徳元年)
大野宮門
伊木源八郎
田代清次郎
第二代 田代清次郎則忠 寛文六年十一月十四日(1666年)
第三代 舌間新次郎宗督 天和三年四月十五日(1683年)
舌間又七宗安の実子で、舌間宗能(舌間重直の子)の養子となる。田代清次郎則忠より伝授。寛延三年十月二十五日没八十六才
以下の面々に伝授
神吉宗範 直方藩 御医師 弐拾五人扶持
高屋平四郎 直方藩 御納戸詰切 弐拾石四人扶持
舌間喜兵衛
舌間新次郎宗督、宗一の寺
第四代 舌間喜兵衛宗一 元禄十年八月二十二日(1697年)
舌間宗能の実子で、宗督の弟にあたる。
兄宗督より伝授。
宝暦十一年十月九日没七十八才
第五代 大野弥兵衛宗勝 享保三年五月七日(1718年)
医師大野弥兵衛茂紀の息子で二代目大野弥兵衛、大野弥次兵衛とも名乗る。
舌間宗督の長男を養子として大野家を継がせた。
舌間宗督、宗一より伝授。
享保十九年八月二十四日没
大野弥兵衛の墓
第六代 舌間作五郎宗廉 享保十年正月二七日(1725年)
舌間宗督の次男。
父宗督、大野弥兵衛より伝授。
安永八年八月二十六日没八十二才
第七代 榎本久右衛門忠直 享保十五年十月五日(1730年)
榎本久衛門の娘婿は、舌間作五郎宗廉の次男。
舌間宗督、宗簾より伝授。
明和六年八月没
榎本久右衛門の墓
以下の面々に伝授
舌間七郎宗益 直方藩
嶌勘助 直方藩 御無足組 十五石
山内久一郎 直方藩 山奉行 二十石
弓削彦太郎 直方藩 長柄奉行 百石
轟平右衛門
第八代 舌間七郎宗益 元文四年九月十五日(1739年)
舌間宗督の養子(旧姓尾仲)。父宗督、榎本久右衛門より伝授。寛延四年に福岡に移住、それ以後双水執流は福岡藩で伝承される。城代組十二石四人扶持
寛政六年十一月十日没七十四才
舌間宗益、宗章、宗綱が眠っている舌間家累代の墓
第九代 臼杵九十郎宗直 安永三年九月十一日(1774年)
宝暦元年六月二十八日、舌間宗益の次男として福岡春吉に生まれる。
その後、高原武八の家督を継ぎ高原幾次と名乗るが、明和六年七月二十一日臼杵九十郎と改名。
その理由は、宗直の祖父舌間宗督は臼杵又七(後舌間又七)の実子であった事から、宗直自身も先祖の臼杵姓を名乗るようになったと言う。
舌間宗益より伝授。
牛牧仕立奉行。
第十代 舌間眞次郎宗章 文化十五年一月十三日(1818年)
(城代組 春吉中洲 拾三石四人)
臼杵九十郎宗直の実子。叔父の舌間惟宗(宗益の長男)の養子となる。
「舌間家を相続なし諸流の奥義を極むると共に双水執流に心根を砕き死活の法も数流より取捨選擇し手堅き流儀となす。之當流中興の祖たり。」
臼杵宗直より伝授。
城代組拾参石四人扶持
安政六年八月十四日没七十一才
以下の面々に伝授
黒河内傅五郎 会津藩 腰之廻(武田惣角の叔父)
石井竜助(同人稲永定八)久留米 組討(心頭流和術)
亀井夘右衛門
舌間弥五郎宗綱
第十一代 舌間弥五郎宗綱 天保四年十一月十八日(1833年)
柴田勘九郎の次男、文政十二年三月(十五才)舌間宗章の養子になる。
「宗綱、双水執流の他に小笠原流鏑馬、扱心流体術、荻野佐々木流火術他、宝蔵院流槍術、馬術等諸芸に通じ、当時石川氏(扱心流)、久保氏(笠原流)等と共に黒田藩の指南役として仕え門生繁栄せり。双水執流を始め、荻野流、佐々木流火術等残らず宗章より皆伝を受けその他の諸芸に精通せり」
天保四年頃弥五郎は宗信と名乗っている。また、一時七郎とも名乗っている。
城代組 六石三人扶持
明治三十年二月十七日没八十三才
引用文献及び参考資料
黒田三藩分限帳(福岡地方史談話会)
隻流館双水執流略史
双水執流組討腰之廻について(天理大学 山本義泰著)
舌間宗益考 舌間宗益と双水執流について(臼木宗隆著)
**福岡第十二代以降は隻流館公式ページをご覧ください。
第十二代 松井百太郎宗忠(まついひゃくたろうむねただ)
大日本武徳会柔道範士 尚武館主
松井百太郎 (黒龍会、大日本武徳会範士、東亜)
号は宗忠。元治元年二月八日、福岡市薬院町に生る。父は黒田藩士松井嘉吉。百太郎はその長男である。明治の初期武道全く衰へたる時に方り、伯父松井幸吉が箱田六輔の勧めによつて柔道々場を開くや、その門に入つて技を磨き、更に舌間宗綱(慎吾の養父)に就て蘊奥を極め、後ち鎮西各地に武者修業の旅を重ね、傍ら剣道を真影流の有地義雄に、槍術を大坪某に学び、技益々進み、十九歳の時所謂千本取に見事勝ち抜いて斯界の大立者となつた。
適齢にて小倉聯隊に入り銃槍教師に挙げられ、除隊の後明治二十一年東京に上り、爾来警視庁其他の柔道師範となり、赤坂一条家邸内に道場を設けて門弟を養成した。後ち赤坂福吉町に二百畳敷の大道場を設け、旧藩主黒田長成侯より尚武館の名称を与へられたが、その規模の大なること本邦第一と称せられた。平常国事を憂ひ、黒龍会に投じて対外問題に力を尽す所あつたが、昭和七年八月十六日、突然心臓病の為めに歿した。年七十。是れより前大日本武徳会柔道範士に列し、武道の為めに尽瘁する所尠なからず、殊に全国柔道家の為めに整復術開業の途を講じ、大正九年内務省令を以て試験制度に依る認可の途を開かしめたる如きは、柔道普及上没すべからざる功労で、死に至るまで大日本柔道整復術会々長として重きをなしてゐた。
(遺族、東京市赤坂区福吉町二、松井宗継)石瀧氏のホームページより転載許可をいただきました。
元治元年二月四日福岡市の生る。氏は年少の頃より柔術を好み十一歳にして双水執流舌間宗綱師の門人にして氏の叔父に当たる松井幸吉氏の門に入り、初めて柔術を修行す。同年十三年敵合秘事を授け、後免許皆伝。斯くて十九歳の時は千本取りを以て修行、技大に進む、明治二十一年十一月警視庁に招かれ、爺来赤坂警察に奉職専ら斯道に盡瘁すること三十余年、同三十九年武徳会より精錬證を授け、同四十二年六月教士号を授興さる。氏は又全国同業者を代表し整復術を認可せしむべく運動に努め功を秦し、現に同会副会長をなす、これより先氏は赤坂福吉町に尚武館にを設立し、斯道の向上発展に努む、昭和二年五月武徳会範士の称号を授興せらる。(昭和五年 武道家名鑑より)
大正四年の「武芸」によると、尚武館道場は赤坂福吉町にあり。双水執流の名手、松井百太郎氏(警視庁柔術世話係)の創設せるところにして講道館及び深田道場に次ぐ大道場なり。婦人そで子女子また柔術よくし、薙刀術に長けたり。婦人の従遊する者すこぶる多し。と有ります。
また、警視庁での試合の記録によると、松井百太郎師と山下十段との試合が行われ、三番勝負で引き分けたという史実があります。
他の記録によると、昭和五年11月三日四日に行われた「明治神宮鎮座十年奉納武道大会」に、弟子で後に跡を継いだ松本(後に松井に養子に入り、百太郎の跡を継ぐ)福次郎宗継と共に演武している。ちなみにこのとき、嘉納治五郎師範は起倒流竹中派として演武している。
明治二十一年ころの警視庁武道世話係。三列目左から二番目が松井百太郎
第十三代 松井福次郎宗継(旧姓松本)明治三十五年生まれ。昭和十年の古武道振興会の資料によると、当時松井百太郎宗忠の跡を継いでいたようである。
昭和五年「明治神宮鎮座十年奉納武道大会」にて松井百太郎と演武。
昭和十年七月十一日(場所不明)杉山正太郎と演武。
昭和十年十月十九日「古武道型仕合 宮内省済寧館」にて杉山正太郎と演武。
松井師の門弟の中でも特に松井師の意志を受け継いだ者に、佐藤昇一郎師と杉山正太郎師の二人がいた。
第十四代 佐藤昇一郎
明治二十五年新潟生まれ。佐藤師は明治四十五年一月松井門下に入門、大正六年組討目録を伝授後講道館に入門し即日三段を貰う。最終的には講道館八段でもあることから主に組討ちを習ったようである。
氷川武道場にて。受けは三輪文四郎師範。
写真は、警視流柔術の「柄搦」と思われる。
第十四代 杉山正太郎
杉山師は明治25年静岡生まれ。少年時代から渋川流柔術に巧みだったが、大正十二年十一月に松井門下に入門。昭和二年に目録伝授。体術にもまして剣術の方もかなり優れていたようで、松井師は杉山師に対し主に腰之廻を教えていたようである。
スタジオでの青竹試し切り
刀剣柴田発行「月刊 麗」昭和59年11月号より
神道夢想流の西岡師範から提供して頂いた写真です。
参照:「清水隆次克泰先生を想う」(昭和59年、東京:清隆会)
p84:青木氏提供の写真で昭和12-3年頃のものと思われる。
その理由は清水先生と共に勝美氏が見えるからである。(前列右端)
演武しているのは双水執流の佐藤昇一郎(取)・杉山正太郎(受)の両先生。
場所は尚武館道場と思われる
松井師が他界(昭和7年)してからは、、昭和15年には杉山師が隻流館を訪問、また佐藤師は戦前戦後と何度か訪問し舌間修三師範と交流を深めていた。
佐々木章次
組討目録
第十五代 北島胡空
昭和27年頃、その杉山正太郎師の跡を継ぐことになる、北島胡空師が入門した。北島師は柔道剣道の達人で特に居合い試し切りは天才的な物を持っていた。又日本刀の鑑定においては本阿弥家より奥伝位を授かった人物でもある。
当時北島師は杉山師に対して刀の鑑定を教えていたが、武道の腕を見込まれて、杉山師より双水執流の跡を継ぐことになったようである。
昭和39年杉山師が他界すると北島師は(このころすでに北島師は光尊会という会を設立していて、刀の鑑定、居合い試し切り等を教えられていた)、光尊会の会員に双水執流を教えるようになりそれが現在まで続いた。
平成8年に現在の深川スポーツセンター内道場にて双水執流の教伝を現師範の佐々木とともに再開。
平成10年没。
台の上に置いてあるだけで、下には一切支え(棒など)はありません。
昭和48年頃
第十六代 臼木良彦宗隆
昭和42年、臼木師範が北島門下に入門。昭和60年頃まで指導を受ける。
北島師範が平成8年に現在の深川スポーツセンター内道場にて双水執流の教伝を現師範の佐々木とともに再開。それを機に師範代として現師範の臼木が参加。同時に矢野が入門する。また北島師範が亡くなる前後に、舌間門下の藤井師範が深川道場に師範代として加わる。
北島師範没後、北島師範の遺言により通夜式霊前にて腰之廻を演武。
また、当流十六代舌間萬三宗利師範より東京の双水執流を保存すべく隻流館の協力と指導を受けるようになった。
双水執流清漣館として臼木師範の下、同じ深川スポーツセンター内道場にて稽古が続けられ現在に至る。
平成18年4月1日より、道場名を清漣館と称す。
北島胡空師範直筆の腰之廻目録ー臼木良彦師範蔵
双水執流清漣館門人ー双水執流三五〇年祭
福岡隻流館道場にて