二神半之助総論
臼木宗隆
二神半之助を論じる前に、青柳喜平師範が明治時代に書いた双水執流略史の原文をそのまま紹介しておく。なぜなら、これからのすべての事に問題を提起してくれる文章だからである。
「豊後竹田の藩士にして竹内流小具足腰之廻りを学び一流を興し二神流と称せり、然るに正聴必勝の術全からざるを憂い普く諸国を巡りて修行し、更に大和国吉野山の深谷に三十七日間立籠り諸流の奥秘中より善悪を取捨し、終に必勝の利を究めしが吉野川の清き流れを見て其の行水の滞らず速なるに心を止め益々己の心胆を錬磨すると共に大いに刻苦工夫して事理無礎なる事大悟し二神流を改め双水執流組討腰之廻りと称せり。
承応の頃舌間又七の斡旋により筑前直方に来り永らく此処に滞在せり。
舌間又七も元豊後竹田の者にして正聴とは謂有る間柄なり、舌間家は大職冠藤原鎌足の後裔元宇都宮氏にして豊後の国主大友の家臣となり弁舌を以て名ありしにより大友候より宇都宮を改め舌間の姓を賜うと、初代を舌間河内守宗善と云う。」
二神時成について
二神嘉林(半之助)の父二神時成は、永禄11年(1568年)伊予松山で二神種良(修理進、瑞庵)の長男として生まれる。もともと四国での二神氏の発祥は、伊予に近い瀬戸内海にある二神島がその発祥地とされ、現在も愛媛県には二神姓がある。
天正12年(1584年)、時成16才の時に岸和田城攻めに参加、その時の軍労証文が現存している。
岸和田城攻めとは、天正10年(1582年)に本能寺で織田信長が倒され、天正12年(1584年)羽柴秀吉が小牧長久手で徳川家康と信長の子信雄との連合軍と対戦している隙に根来寺を本拠としている強大な武力を持つ根来衆が岸和田城を包囲した。
松山城から望む興居島。その裏に二神島がある
当時岸和田城には、これより14年前の元亀元年(1570年)に始まった石山合戦で、紀州雑賀と根来の一向宗徒(浄土真宗)が和泉地方に侵入し、大坂の石山本願寺と呼応して織田信長と対敵していたのだが、信長は大軍を率いて一向宗を平定し、唯一紀伊に残る一向宗徒に備える為に、信長は中村一氏(かずうじ)を岸和田城主として入城させていた。根来衆が岸和田城を包囲した事で、中村一氏は当時大阪城を預かっていた黒田孝高(如水)の援軍を受けて根来衆に打ち勝ったと言うのが岸和田城攻めである。時成は、どのような理由で黒田家に近づいたかは解らないが、この時点ですでに黒田家に仕えた事になる。
ところで余談になるが、中村一氏は近江国甲賀の出身で近江源氏佐々木氏の族山崎氏の余流とされていると言う。その佐々木氏であるが近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流で、佐々木氏は各地に枝族を広げていった。当清漣館の師範佐々木麻雄の本家は岐阜県と聞いているが、もしかしたら岐阜の隣に位置するこの近江(滋賀県)の佐々木氏が元かもしれない。また滋賀県には佐々木氏を奉った沙沙貴神社(ささきじんじゃ)と言うのがあるので調べてみても面白いだろう。
永禄4年(1561年)村上水軍の一族である来島村上家当主、来島通康の四男来島通総(みちふさ)が生まれる。ただこの時はまだ来島姓ではなく、村上姓であった。
村上水軍は、日本中世の瀬戸内海で活躍した水軍で、その拠点は広島、愛媛の諸島を中心とした海域で、後に能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家に分かれた。また来島は、愛媛県今治市の来島海峡の西側に位置する島で、その由来は潮流が早く、潮向も複雑なことから「狂う潮」が訛り「くるしま」となったとされている。
来島通総は永禄10年(1567年)、父が急死したため7才で家督を継いだ。通総の母は河野通直の娘である事から河野家とも付き合いがあり、そのような関係で河野氏と同盟関係のあった毛利氏が大友宗麟を攻めた時には援軍として参加、大友水軍と戦っている。
河野氏は、伊予国(愛媛)の有力豪族で室町期には道後に湯築城を築き、その分家は河野水軍となり室町末期には瀬戸内最大規模の水軍になっている。
しかしこの海戦で毛利水軍を元々率いていたのは能島村上水軍であったことから、村上武吉と不仲になったと言われている。
天正10年(1582年)、通総は毛利方であったにもかかわらず、羽柴秀吉の勧誘を受けて織田方に寝返ったため、毛利や河野に攻められて本拠地を追われ、一時は秀吉の元に身を寄せていた。秀吉は村上氏の中でも早くから味方かについた通総を「来島、来島」と呼んで重用していたので、この時に村上から来島と改名したのである。
ところで二神系譜研究会の調査で解った事だが、河野水軍と来島と二神水軍は親密な仲であったことが判明している。そう言う事から間違いなく来島通総と7才違いの二神時成とは密接な関係があると言って良いだろう。だからこそ毛利方にいた通総が織田方に寝返えってもそれに従って二神時成も動いていた事が理解出来る。
さらに、天正14年(1586年)の夏に、秀吉は九州の平定を決意して、黒田如水を中国軍の軍艦として出陣、天正15年(1587年)に通総も如水に従って九州に遠征しており、その時二神時成も遠征していたのは間違いない。
この様な歴史の流れの中で、それではいつ二神時成は備前美作(みまさか)の日本最古の柔術と言われている竹内流の流祖、竹内中務大輔久盛(たけのうちなかつかたいふひさもり)の弟子になったのであろうか。
竹内久盛が竹内流を創始したのが天文元年(1532年)とされている。ただしこの天文、永禄、天正と言う時代はまさに戦国の真っただ中にあり武術どころではないのが事実である。久盛自身、自分が城主であった美作国一之瀬城が天正8年(1580年)に宇喜田氏の攻撃を受け落城し、久盛はこの一之瀬城の再築を計るため備後の小早川隆景を頼って旧縁の播磨の三木城主別所氏の家来尾越弾正のもとを訪ねたが、すでに三木城も秀吉に占領されたことを知り、乱世のむなしさを痛感し戦国武将をやめ武術の道を選んだと言う。
ここで二神時成の年代を当てはめてみると、竹内流が創始されたとする天文元年はまだ時成は生まれていない。では竹内久盛が武術に専念し始めた天正8年ではと言うと時成は12才であり、基本的には考えにくい。また時成は天正12年(1584年)に16才で岸和田城攻めに参加している事から、やはりこの年代は無理な話である。
翌年天正13年(1585年)来島通総は秀吉が四国征伐を決行した時、備後国の小早川隆景の指揮の下に伊予で先鋒を務め、旧家であった河野氏を攻めたのだが、その時、時成も参加していた。通総はその後も、天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加している事から時成もやはり一緒に行動をしていたはずである。
ところで、竹内久盛は文禄4年(1595年)93才で亡くなったとされ、それは天正18年から5年後のこと、この間にわざわざ備前美作まで出向いて、ましてや88才を過ぎた竹内久盛に竹内流を習ったかどうか疑問がある。
このように見てゆくと、時成と竹内久盛との接点が見当たらない。私はこのような歴史の流れから、実は時成が竹内久盛から直接竹内流を学んではいないと見ている。この事は、竹内流の系図にもその曖昧さが見てとれる。
竹内流系図によると、初代竹内流の竹内中務大輔久盛から免許皆伝を得た門人は四人いることになっている。長男の竹内五郎左衛門久治(その後竹内畝流を開きその開祖となる)、次男の竹内常陸介久勝(竹内流二代目継承)、高畑大膳益友(備中郷士)、二上某(竹内流免許、二上流)である。
この記載の竹内久盛の二人の実子はともかく、高畑大膳益友は正確に名前が記載されているのにかかわらず、なぜか二神時成を「二上某」と非常に曖昧な表記になっている。また二神を「二上」となっている点も注目すべき事である。室町、江戸時代においては発音重視の文化で、漢字は往々にして当て字が多いのも確かだが、自ら竹内久盛の所まで行ったとしたら当然名前ぐらいは記帳するだろうし、そのとき時成が自分の苗字を当て字でまた名前を書かないなんてことはあり得ない話である。では時成が竹内流を学んだと言うのは嘘かと言う事になるが、それがそうでもないのである。
話はもどるが、天正18年に小田原征伐に参加した時成は天正19年(1591年)には四国に戻っている。実はこの天正19年に竹内久盛の次男竹内久勝(後の竹内流二代目)が修行のため九州を周り、その後四国に渡って何人かの人に竹内流を教えていた可能性がある。
私はこの時、時成が久勝と出会って竹内流を伝授されたのではないかと考えている。その後、久勝は父の久盛のもとに帰り修行話のなかで、四国で二神と言う男に教えたと言う事を話したと思う。それが久盛にすれば聞き書きで、ましてや久勝も名前までは覚えていなかったため、門人帳には「二上某(なにがし)」と記載され、いつの間にかそれが久盛の弟子で免許皆伝まで付け加えられたと言うのが本当だろう。ただし、免許皆伝と言うと現在は何年も修行しないと得る事は出来ないのが普通だが、昔は技を一通り出来れば免許と言うのはあったようで、以外と久勝が勝手に免許を出したかもしれない。
慶長2年(1597年)の慶長の役に来島通総が参加したが、時成もそれに従って行動を共にしたと思われる。そして、この慶長の役で来島通総は戦死、家督は次男の来島長親(ながちか)が継いだ。
来島長親(後に康親と改名)はその後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため、敗戦後伊予の領地は没収された。しかしその後なぜか豊後森藩一万四千石に取り立てられている。その理由は、はっきりしておらず諸説があるようだが、一説に長親の妻の伯父である福島正則の取りなしにより本多正信(徳川家康の重臣で江戸幕府の老中)を通じ、慶長6年(1601年)に幕府より豊後森藩を与えられたと言う。
二神系譜研究会では、時成は豊後森藩には仕えず、黒田藩に仕えたとしている。しかし私は、来島長親は父の通総死後その家臣も一緒に入っており、時成も一旦は豊後森藩に入ったと考えている。現実には、二神一族からは二神通範が入っており、さらに来島長親の長男で森藩二代目になった久留島通春(元和2年に来島から久留島に改名)の五男久留島通音は二神通範の養子になり二神種春(後、得能主水と改名)となっている。
さて、ここで今まで述べた二神時成の経歴を整理して時系列的に並べてみた。
永禄11年(1568年)伊予松山で生まれる。
天正12年(1584年)岸和田城攻め 16才
天正13年(1585年)四国征伐 17才
天正15年(1587年)九州征伐 19才
天正18年(1590年)小田原征伐 22才
天正19年(1591年)四国へ戻る 23才
文禄 4年(1595年)竹内久盛死去 27才
慶長 2年(1597年)慶長の役 29才
慶長 5年(1600年)関ヶ原の戦い 32才
慶長 6年(1601年)豊後森藩へ 33才
このように見てゆくと、二神時成は天正12年の16才から慶長5年の32才までは概ね1、2年間隔で戦場での明け暮れで、めまぐるしい生活をおくっていた。そんな中で所帯を持って落ち着いた幸せな生活などなどあり得なかったであろう。
その後、時成は寛永14年(1637年)の島原の乱までの36年間はその消息は分かっていない。この間にもしかしたら黒田藩に移動したかも知れないが、黒田藩に二神時成の記載されている資料は今のところ発見されていない。
双水執流略史の冒頭で二神半之助は「豊後竹田の藩士にして、竹内流小具足腰之廻を学び・・・」と書かれているが、これを素直に解釈すれば「豊後竹田の藩(岡藩)の出身」となる。
しかし実は、豊後竹田には元禄2年(1689年)までは二神姓は存在していなかった事が二神系譜研究会で確認されている。
ではこの事はどのように解釈すればよいだろうか。
豊後竹田の武家屋敷跡
私は、半之助は豊後竹田で生まれその後森藩にいた二神時成の養子になったと考えている。そしてもし黒田藩に仕えたとするならこれ以後ではないだろうか。そうであれば、この略史の記載の豊後竹田の藩士でその後二神時成の養子になり、その後黒田にも仕え、時成から竹内流を学んだという事も、つじつまが合う。
この事について、ある程度うなずける事実が残っている。それは、寛永14年に起った島原の乱に、二神時成と息子の半之助が参加している。ただし二神系譜研究会では黒田藩士としてとなっているが、本当の事は分からない。また豊後森藩も臼杵藩と共に島原城の警備を任されていたため、森藩士としての可能性もある。そして翌年の寛永15年(1638年)1月に二神時成は70才で戦死、半之助も負傷したと伝えられている。
この時半之助が何才だったかは分からないが、半之助は元禄6年(1693年)に亡くなっているので、寛永15年から数えて55年後の事になる。
これらの事から、寛永15年当時は半之助の年齢は15才から20才と言うのがまず考えられる。なぜなら時成が70才で半之助が10才頃だとまだ子供だし、逆に半之助が40才過ぎだと元禄6年には95才から100才近くになり、これも考えにくい。また30才だと年齢的には丁度良いが、元禄6年で85歳になり、微妙な年齢ではある。また時成の実子としてみた場合、時成が40才から55才頃の子供と言う事になり、一般論だが通常このような年齢差は養子と考えた方が自然である。仮に寛永15年に半之助を20才と仮定してみると、逆算すると半之助は元和4年(1618年)生れ、時成50才のときに当たる。
以上の事から、豊後竹田には二神一族はいなかった事、寛永15年に島原で時成が70才で戦死、その時に半之助も参加出来ていた年頃だと言う観点から見て、間違いなく半之助は時成の養子であった。
その後、次に半之助が登場する承応頃までの消息はまったくつかめてはいない。しかし、私は島原で傷ついた半之助は福岡に行かずに、豊後森か豊後竹田に帰ったと考えている。そしてそこで傷を癒し、そのまま医術などの勉強をしながら暮らしていたのではないだろうか。
二神半之助について
実は、二神系譜研究会には半之助正聴(まさあき)と言う名前は出てこない。あるのは、嘉林、九郎右衛門、七太夫で、黒田藩寛文官録に九太夫がある。
玖珠史談会の竹野孝一郎氏は状況証拠的に見て九太夫と嘉林は同一人物とみている。私もこの竹野氏と同じ意見で、さらに嘉林と半之助も同一人物と思っている。それは嘉林が福岡藩、森藩と渡たり、最後は元禄2年(1689年)二神一族のいない生まれ故郷の豊後竹田に帰ったことなどから総合してそう考える事が出来るからである。
私は、半之助正聴は豊後竹田時代の名前で二神家の養子になってから嘉林や九郎右衛門や七太夫が付けられたと考えている。もっと正確に言えば、島原の乱に時点でも半之助で、承応頃(1652年頃)東蓮寺藩(直方藩)に来て双水執流を開眼した時点でも半之助であったのではないだろうか。ただしこの頃には、もしかしたら九郎右衛門名はあったかもしれない。そして、伊丹九郎左郎衛門の側近となり黒田藩で馬廻についた時に九太夫を名乗った。
その後、何らかの理由で寛文6年頃(1666年頃)に東蓮寺藩から豊後森藩に戻りそこで嘉林に改名したと考えられる。
そして、天和2年(1682年)には、森藩で隠居となり父時成の名前七太夫を襲名した。
さらにもう一つなぞがある。それは玖珠二神系図を見ていただくと分かると思うが、通範の子供に種尉、種房、種春、種家がいて、その中の種春の子が種良になる。
直方城址
通範
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種春
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種良(種弘、種明とも言う。修理進、瑞庵)
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時成(種重、光成とも言う。吉兵衛、七太夫)
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嘉林(九右衛門、九太夫、七太夫)半之助正聴
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嘉鑑(甚左衛門)
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種在(藤三)
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猶次郎(祐安)林家から養子
このように、二神家は基本的には「種」の字が通字で時成も種重名がある。これ以外にも種尉、種房、種家の子孫はすべて「種」が付いている。しかしなぜか嘉林と嘉鑑にはそれがない。そこで嘉林だけの系図を見ると、このようになっている。
|ー定成、半右衛門、十右衛門
|ー女子麻 続家嫁
嘉林 ー|ー嘉鑑、甚左衛門、与市兵衛(豊後竹田)
|ー種聡、彦四郎、藤左衛門、継本條家
これを見ても分かるように、明らかに嘉林と嘉鑑だけが二神家とは違う名前を表している。
嘉林には、長男半右衛門が生まれている。半右衛門名は半之助名と近いものを感じる。その後、時成の成をとり定成の名前を付けられているが、若くして亡くなった。
定成がどこで亡くなったのかは不明であるが、少なくとも福岡、直方時代ではない。もしそうだとすれば、埋葬した墓や寺など何かしらの痕跡があるはずだが、直方調査をした限りではそれらは発見されなかった。間違いなく定成は豊後森藩で亡くなったのである。
その後、次男の嘉鑑が生まれるが、嘉鑑と名付けた事に嘉林の強い意志を感じる。それは、豊後森藩に帰ってからの嘉林の仕事に何かヒントが隠されている様な気がするからである。
また三男彦四郎が生まれるが、彦四郎は二神家の通字の種聡と名付けられ、その後本條家の養子となった。
さらに嘉鑑(よしあき)の系図を見てほしい。
|ー種政、弁吉、七太夫
|ー種在、清右衛門、藤三ーーー猶次郎、祐安(林家より養子)
|ー女子 登与 早世(豊後森成覚寺)
嘉鑑ー|ー男子 早世(豊後竹田)
|ー女子 中川内膳正殿内 横田源助妻(豊後竹田)
|ー女子 同内福田宇□次妻(豊後竹田)
|ー女子 同内柘植新次妻(豊後竹田豊音禅寺)
嘉鑑は自分の子供には二神家の通字にのっとり、種の字を使った。また、長男の種政は若くして亡くなったようで次男の種在がその家督を継いだ。そして、種在にも男子が出来なかったため、大分鶴崎の林家(亀屋)から猶次郎を養子として家督を継がせた。その猶次郎は後に医者になり祐安と名を改めた。しかし祐安にも子供がいなかったため、ここで二神家は絶家となった。
ところで、双水執流略史にはわずかだが二神半之助が直方に来た理由が述べられている。
「承応の頃、舌間又七の斡旋により筑前直方に来り永らく滞在せり。舌間又七も元豊後竹田の者にして正聴とは謂有る間柄なり」とある。
面白いのは、又七と半之助が同じ竹田出身で謂れ(いわれ)ある間柄と言っている点である。謂れとは、わけ、意味があるという事であるから、私は又七と半之助はかなり密接な関係であると考えている。
もしかしたら兄弟の可能性もある。
そう考えれば、すべてが無理なく納得出来るからである。
舌間又七が住んでいた直方の跡地
室町末期には、大分の大友氏の家臣の臼杵氏が豊後竹田に移り住んだ。その臼杵氏から臼杵半之助と又七が生れ、半之助は豊後森にいた二神時成に養子に、しばらくして又七は直方の舌間与三右衛門重直の婿養子となった。そして、又七が直方の伊丹九郎左衛門知行地の保正になったため、島原の乱以降豊後竹田に戻っていた兄の半之助を呼んで伊丹九郎左衛門に紹介したと考えられる。
伊丹九郎左衛門邸跡
ところで、根上優氏著の「隻流館の挑戦」(平成15年10月18日発行)と言う本があるが、根上氏はその中で双水執流の歴史に触れて、この時点で史料が乏しいとの前置きした上で二神半之助をあらゆる角度で考察されている。しかし結局は資料が乏しいと言いながら二神半之助を豊後竹田の武士で、竹内久盛の晩年弟子であり、八十歳近くの高齢になってから大悟し、双水執流を興して黒田藩に召し抱えられた「超人的人物」と述べている。史料がないのは仕方がないとしても、歴史的な考察をもって状況証拠を積み重ねて実証するべき事だと私は思うが、不明な部分は「超人的人物」と片付けてしまうのは、いかがなものかと思う。
また根上氏は、「双水執流三百五十年の起点が、承応元年に二神半之助正聴が双水執流を興し、黒田藩の武術指南役として仕えるようになった、まさにそのときであることを覆すものは何もないばかりか、この歴史的文脈においても、二神半之助が竹内久盛の直弟子であるか否かは、それほど重要ではないのである。」と言い切っている。
私は長々と半之助の父親からの歴史まで遡って述べているのは、竹内久盛の直弟子かどうかはとても重要な事として考えているからである。それは室町末期と江戸時代以降の幕藩体制確立後の社会状勢の大きな変化は、文化、風俗、習慣等も変えてしまったのであって、それが武術においてもその形体が様変わりしていたと言う事実を証明したいからである。それは江戸初期に成立した双水執流の根幹をなす部分であり、それを「それほど重要ではない」と言い切ってしまうのは双水執流を考える上であまりにも短絡的で危険ではないだろうか。
また、二神半之助が「黒田藩の武術指南役として仕えるようになった」と言う事実はどこにもない。二神半之助が寛文頃、一時期黒田藩にいたのは事実だが、しかし双水執流は黒田藩ではなく東蓮寺藩(直方藩)の舌間家を中心に伝承されてきた武術で、その後福岡藩内での伝承は舌間宗益が寛延4年に福岡に移住してからである。
舌間氏と舌間又七について
舌間氏の発祥は略史の通り宇都宮氏からであるのは間違いはない。舌間家譜(舌間宗益著)には、宇都宮姓舌間氏家系として大職冠藤原鎌足十二代宇都宮祖道兼からの系図が事細かく書かれている。しかし、宇都宮氏に関しては分派も含め多く存在しているため、本当の事や嘘も入り乱れて伝わっているのもあり、難しい部分も多々あると言うのが正直な意見ではある。
舌間家譜によれば宇都宮資綱(石見守豊後国大友家に属す)の子吉宗が舌間氏の初代舌間河内守吉宗となっている。そしてその舌間姓改名理由は、「河内守吉宗は、豊後国大友家に属して功有り、猶弁舌広才の誉れ有によりて、宇都宮を改め、舌間と唱すべしとの命を請てより、後代に舌間を氏とす」とある。
ところで、双水執流略史の舌間氏初代を河内守宗善と言うのは、舌間家譜と食い違っている。これは、今述べたように河内守は吉宗(応永頃)という名前であり宗善は越後守と言い、時代も違う。現実には舌間越後守宗善(寛永14年11月29日没)の墓も存在していることから、あきらかに双水執流略史の記載が間違っている。越後守宗善は直方舌間氏の初代であるので、この事が混同して間違った記載になったと考えられる。
宇都宮資綱(ともつな)は、筑後宇都宮氏の武将と言う事になっている。石見守を受領し大友氏に属したのだろう。時代は南北朝期にあたる。嫡子宇都宮政長が大木政長になるのだが、舌間家譜では資綱の子が吉宗となっている。本当に吉宗は資綱の実子なのであろうか。
舌間越後守宗善の墓
もう一つ宇都宮には、伊予宇都宮氏がある。宇都宮豊房(とよふさ)が始祖で、八代まで続いたのだが、豊房には子供がいなかったため筑後宇都宮泰宗の子供で宇都宮貞泰の四男宗泰を養子にして、二代目宇都宮宗泰とした。つまり筑後宇都宮氏と伊予宇都宮氏はこの時点でかなり親密な関係であった事が分かる。
ところで伊予宇都宮は、現在の愛媛県八幡浜市を中心に活動していた。そしてこの八幡浜市に舌間と言う地域がある。近年、舌間姓についての研究で舌間姓の発祥はこの八幡浜の舌間だと言う説が有力になっている。「八幡浜史談」と言う冊子で「大島の歴史と信仰(山本巌著)」の中で舌間地名伝承が詳しく述べられているが、簡単に言えば龍舌を見た船子達が、帰り着いた港にその名前をつけたと言う事で竜神信仰伝説に基づく地名伝承であると言う。また、舌間港はリアス式海岸の地形のため龍の舌に似ている所から、その名が付いたとも言っている。
これらを総合的に考えてみると、資綱には実子と養子がいたのではないだろうか。そしてその養子になったのが伊予宇都宮の六代か七代目の子吉宗であった思われる。
資綱は豊後大友氏に属していため吉宗も大友氏のなかで働き、吉宗は大友氏より出身地の舌間で呼ばれていて、それが改名につながったのかもしれない。勿論それに合わせて弁舌も達者であったのも事実であろう。「二神時成について」で、来島通総が初めは村上姓だったのが秀吉に出身地の来島と呼ばれているうちに来島と改名したと同じである。
その後河内守吉宗の子、舌間甲斐守國綱が家督を継ぎ大友家領内の豊後日田郡より筑前国粥田庄まで押さえて、さらに鞍手郡境郷の諏訪山に砦を構えたのである。その砦は舌間新蔵人益綱、その養子舌間越後守緒綱(志摩郡小金丸城主、小金丸民部之丞の子)に引き継がれてきた。そして、緒綱(たずつな)の子が舌間越後守宗善である。舌間与右衛門浄安、舌間与三右衛門重直と続き、重直の養子に豊後竹田の臼杵又七が養子に入るのである。
砦を構えていた直方諏訪山
臼杵又七が竹田から直方に来た理由として、舌間家譜で「又七無足勤、故有りて同所を退く」とあり、又七が無足と言う禄を貰えない下級武士で、そのため臼杵家の生活は厳しかった。当然岡藩に士官を嘆願していたはずだが、幕藩体制が確立した江戸初期にはすでに藩自体が経済的に引き締め政策を行い始めていて、その望みはかなわなかった。それで新天地を求めて直方東蓮寺藩に士官の望みを託してやってきた。ただなぜ臼杵又七が東蓮寺藩をめざし、あるいはどのようなコネクションがあったのかは謎である。
考えられる事として、舌間氏も臼杵氏も同じ大友氏家臣と言う事でその中で接点があったのではないかと考えられるが、しかし舌間氏は早くから直方の諏訪山を拠点に住んでおり、また豊後竹田の臼杵氏は元々豊後の豪族で、初めは大友氏とも協力関係にあったものの、その後大友氏に追われる形で豊後竹田に流れ着いて土着しているので、舌間氏との接点は今のところ見受けられない。
そこで、直方に直接臼杵氏に繋がるものはないかと調べていたら、興味深い史実があった。それは、貝原益軒が元禄年間に編纂した「筑前国続風土記」に
当時東蓮寺藩であった木屋瀬の記載で「木屋瀬 むかし勝光上人穂波郡明星寺再興の時、豊後臼杵家より材木を寄附しけるを船につみ、蘆屋川より上せ、此所の河辺に木屋をかけて入置ける。其所を木屋瀬と云。今は他国通路の宿駅と成て、民家多し」とある。
木屋瀬は現在北九州市に位置する所だが、江戸時代は直方藩の所領で豊前小倉と肥前長崎を結ぶ長崎街道の重要な宿場町の一つであった。その木屋瀬に臼杵一族が関わっていたとする記載だが、もっとも明星寺を再興したのは鎮西上人で鎌倉初期の話ではある。また、この勝光上人が鎮西上人と同一人物かどうか分からないが、いずれにしても明星寺再興に関して、あるいは改築等で臼杵一族が関係して、臼杵氏の一部が木屋瀬に住み着いた可能性は大きい。そして、少なくとも江戸時代初期までは木屋瀬と豊後の臼杵氏は交流があったと考えられる。だから、臼杵又七が直方を目指したと言うよりこの木屋瀬の臼杵氏を頼って直方に来たと言う方が分かり易い。
面白い事に、豊後と直方を比較的簡単に結ぶルートがある。それは、豊後森の玖珠にしても豊後竹田からにしても豊後日田に出て、日田からは金剛野峠を通って彦山に出れば後は船で彦山川を下だるだけで、直方で遠賀川と合流するのである。かなり短時間で来る事が出来たようだ。
木屋瀬に着いて、その後上境で保正をしていた舌間家を通じて伊丹九郎左衛門を紹介してもらったと考える事が出来る。しかし、東蓮寺藩に士官として嘆願してはみたものの、やはりその道は難しかったようで、士官を断念し臼杵七は上境の保正であった舌間与三右衛門重直の婿養子となった。ちなみに保正とは民の組頭の事で、舌間家は上境の農民を大きくまとめる組頭であった。ここで又七は、武士の道を諦め農民になったと言う事である。
舌間又七宗安の墓(寛文七年五月十三日没)願誉宗安禅定門
大野弥兵衛について
双水執流第五代目大野弥兵衛宗勝(享保3年5月7日継承)について調べているうちに、興味深いことが分かってきた。
直方大野家の初代は大野弥兵衛茂紀(しげのり)で寛永8年(1631年)生れで、宝永3年(1706年)10月22日75才で亡くなっている。
大野家の墓石には「暁天時雲居士 播州湯浅氏族 大野弥兵衛茂紀」となっている。そこでまず記載されている播州湯浅氏族について調べてみた。
大野弥兵衛茂紀の墓
湯浅氏は元々紀伊国在田郡湯浅庄が発祥の大族で、湯浅党とも言われていた。そして室町末期に、丹波国世木城主の湯浅宗貞がいた。この丹波湯浅氏は、中世紀伊国の最大武士集団を率いていた湯浅党の一族で、湯浅宗重の孫阿氐川宗氏(あてがわむねうじ)の末裔に当たり、宗氏の五代孫宗朝が丹波国世木郷を領した事に始まっている。
大野氏の発祥については、丹波国説として「丹波国の大野村より起こる。この地、大野村大野城は大野修理亮居住の地也。修理亮は鬼修理と呼ばれし人にして、大坂にありし大野修理の父也と云ふ」とある。いずれにしても室町末期に、同じ丹波国で湯浅氏と大野氏は繋がっていたと考えられる。
豊臣秀吉の側近として大野修理大夫治長と言う人物がいるが、この時期大野一族が大坂に出てきて、その一部が中川清秀の家臣となったのだろう。天正8年(1580年)播州三木城主別所長治が秀吉によって滅ぼされると、中川清秀は三木城主に就くのだが、その時に大野氏も三木城に入ったと思われる。
天正11年(1583年)、中川清秀が賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで戦死、長男の秀政も文禄の役(1592年)10月に戦死したため、次男の秀成(ひでしげ)が家督を継いで三木城主になった。
文禄3年(1594年)2月、中川秀成は秀吉の命を受け豊後竹田にある岡藩主として竹田に移動した。この時秀成の家臣団も一緒に移動していて、その中の一人大野氏も竹田の地に移住したと言う事である。
大野弥兵衛茂紀は寛永八年生れであるから、年代的に見てこの秀成と一緒に来た大野ではなくその息子と考えられる。自分の父が湯浅氏族で播州から来た事を聞かされていたのだろう。そして、豊後竹田で生まれた大野弥兵衛茂紀は、その後同じ竹田で生まれた幼なじみの臼杵又七と直方に出て来たのである。
臼杵又七が竹田から直方に来た理由として、舌間家譜で「又七無足勤、故有りて同所を退く」とあり、又七が無足と言う禄を貰えない下級武士で臼杵家の生活は厳しかったため、当然岡藩に士官を嘆願していたはずだが、幕藩体制が確立した江戸初期にはすでに藩自体が経済的に引き締め政策を行い始めていて、その望みはかなわなかった。それと同じように大野弥兵衛も生活は貧困していたため、二人で新天地を求めて直方東蓮寺藩に士官の望みを託してやってきたのだ。
直方に来た二人は、東蓮寺藩に士官として嘆願してはみたものの、やはりその道は難しかったようで、士官を断念し臼杵又七は当時上境の保正であった舌間与三右衛門重直の婿養子となり、また大野弥兵衛は頓野村で医師になったと言う事である。舌間家譜には「大野弥兵衛も宗安(又七)民家に下りければ、同じく士官の望みをやめ、かねて鍛錬せし医術を業とし、同郡頓野村に居住す。今、大野帛山家是なり」とある。
直方に来た時期だが、大野弥兵衛18〜20才が妥当と思われ、慶安年間(1648~1652年)と考えて良いと思う。なぜなら臼杵又七が次の年号承応頃に二神半之助を招いている事から、やはり慶安頃直方に来て士官を志したもののそれもかなわず又七は舌間の養子へ、弥兵衛は医者となった。ところで、双水執流流祖二神半之助の門人帳に大野宮門と言う名前があるが、もしかしたたらこの宮門は大野弥兵衛の事ではないだろうか。
その後、弥兵衛には長男弥次兵衛が生まれ、父と同じく医者になっている。実は、私はこの弥次兵衛が双水執流五代目の大野弥兵衛宗勝ではないかと思っている。理由は、父親と同じく舌間又七と非常に近い存在でまた弥兵衛宗勝が双水執流を継承したのが享保3年(1718年)5月7日で、時代的に一番符合するからである。また、さらに興味深いのは弥次兵衛には男子がいないため舌間宗督(舌間又七の実子)の長男宮之助を養子にしている。
実は、宗督の長男、次男は双児で次男は舌間作五郎で、双水執流の六代目を継いでいるのである。また三男として尾仲家の宗益を養子として八代目をこの舌間宗益が継承した。
弥次兵衛は、父弥平衛が宝永3年(1706年)に死去後、父と同じ弥平衛を名乗ったと思われ、だから享保3年に継承した時はすでに弥兵衛名になっていた。
大野弥次兵衛の墓
吉野について
双水執流の江戸時代までの伝書には「芳野之山中究知必勝之利自二神流改双水執流・・・」と書かれている。つまり芳野(吉野)の山中に籠って必勝の利を極めて二神流を改めて双水執流としたと言うのである。
ところが双水執流略史には、流祖二神半之助正聴が修行した様子を「・・・大和国吉野山の深谷に三十七日間立て籠り諸流の奥秘中より善悪取捨し終に必勝の利を究めしが吉野川の清き流れを見て・・・」と、これにより悟りを開いたことになっている。つまりいつの間にか吉野が「大和国吉野山」に変わってしまっている。そもそも江戸時代までの伝書には大和国とは書いていないし、吉野川と言う記載もない。それを明治時代になってから吉野と言う地名だけで大和国や吉野川まで付け加えられてしまった。
確かに現代人は吉野と言えば奈良県の吉野をさす事が多いと思うが、これも地域によってはやはり違うのではないだろうか。例えばこれが四国の人に吉野と聞けば多くの人は讃岐から流れている吉野川を言うし、佐賀県の人は吉野ケ里を言うはずである。つまり一口に吉野と言っても地域によってその捉え方は様々で、実は九州地方でも吉野と言う地名は複数あるので、この伝書の吉野を大和だけに限定してしまうのは危険だと私は思う。
また、略史にある「吉野の山中に三十七日間立て籠り」は「吉野の山中に三七日(みなのか)参籠(さんろう)す」と言う意味で、三七日(みなのか)は21日間の事、参籠とは祈願するために神社や寺院にある期間こもることを言う。つまり、奥深い山に籠って修行するのではなく、神社等に籠る事で悟りを開いたと解釈される。
また双水執流の流名だが、二つの水の執(と)るところ、つまり川の事を意味している。二つの川とは、陰陽を表現していて、それが一つになる事で宇宙を表現している。人間の真理とはここにあると、二神半之助はある川を見てそれを悟ったのだろう。
私は以前から双水執流は直方で完成した流派ではないかと考えている。それは、私が初めて直方を訪れた時、真っ先に目に飛び込んできたのが目の前に流れている遠賀川であった。そしてそれは直方惣郭図に描かれていた「二つの水の執る」川、遠賀川と彦山川を見たのである。
直方惣郭図(庄野家蔵)
そんな中で、直方近辺に吉野の地名を発見したのである。勿論それだけでこれが伝書に書かれている吉野などと断定して言うわけではないが、一つの可能性として考えてもよいだろう。ただ現在この地域に関しては調査中であり、場所等の発表は現段階では控えさせていただくが、今後の調査で解りしだい報告したいと思う。
直方から豊後森へ
ここからは、私の個人的な推測での考察とさせていただくが、同時に立証に向けた調査も行っており、証明出来た時にはきちんと報告させていただく。
承応頃、舌間又七の招きで直方に来た二神半之助は、ここで双水執流を開眼した。その後、数年は福岡藩に移動したようだが、また直方に戻っている。
寛文6年(1666年)に田代清次郎に双水執流を受け継ぐと、森藩より戻るよう要請があったので半之助は豊後森藩へ戻った。
その理由の発端になった事が、寛文3年(1663年)に起きたある事故からである。それは、参勤交代のため森藩主三代目久留島通清は飛び地である別府湾頭成(かしらなり)から船で瀬戸内海を移動中、周防国屋代島沖で暴風雨に遭い遭難した。そして、藩主の弟通方をはじめ多くの家臣を失ったのである。そのため久留島通清は多くの家臣団が失った事から早急に森藩の立て直しにかかった。
さらに、寛文6年に肥後八代出身の渡辺五郎右衛門が森藩の飛び地速見郡鶴見村でミョウバン(明礬)の製造に成功、その生産が始まった。明礬は、止血剤としての薬品や染物の媒染剤として必要なものであったため、森藩の重要な収入源となった。しかし、これらの事柄にやはり家臣団の損失は大きく、人材不足は否めなかったのである。そう言う事から寛文6年に森藩から半之助に藩に戻るよう要請が届いたのである。
森藩での半之助の仕事は、寛文3年の遭難事故で藩医(御典医)も失っていた森藩で、その補填としての医者の抜擢と思われる。もともと半之助は、豊後竹田時代にも医者の修行をしていたようであり、また武術そのものが医術と関連している部分もある事から、藩医は自然な流れであったろう。だからは、武士から医者に変わる事を知った半之助は、双水執流を一子相伝的に嘉鑑には伝授せず、それを田代清次郎に継がせたのだと思う。
また、半之助の門弟で大野宮門と言う人物がいるが、これは初代大野弥兵衛と思われる。大野弥兵衛は、舌間又七の友人で同じ豊後竹田で生れ、そこで医者の修業もしていた。そして、又七と一緒に直方に出てきて又七は農民へ、大野は医者となって直方に住みつたのである。また、半之助の曾孫にあたる祐安も豊後竹田で医者になっている事から、半之助の系統は基本的には医者として受け継がれたと言える。
森藩に戻った半之助は、嘉林と言う医者名に改名した。その子嘉鑑も医者として森藩に仕えた。天和2年(1682年)、半之助はその職を引退、隠居料(退職金)50石を貰っている。またその年の嘉鑑は150石でその優遇さが分かる。
ところが、森藩の重要な収入源である明礬も中国からの安価な輸入品が多く入るようになると、国産明礬の需要も激減し森藩の財政も緊迫してきた。そう言う中で、元禄2年(1689年)に久留島通清は再び藩内改革を行い、二神嘉林、嘉鑑を召し放れ、つまりリストラしたのである。そして、リストラされた二神半之助一族は、生れ故郷の豊後竹田へ帰って行った。そこで、ここでも嘉鑑は医者として生計を立てていたと思われる。だから嘉鑑の娘三人が岡藩の家臣に嫁ぐ事が出来たのも、そう言う背景があるからである。
半之助の生涯は、豊後竹田の貧しい武士の家から始まり、森藩へそして直方藩、福岡藩、そして再び森藩へと戻ると言う目まぐるしい人生ではあったが、家族にも恵まれその一生は充実した一生であったに違いない。
半之助は、元禄6年(1693年)1月5日の寒い冬の朝、眠るようにその生涯を閉じたのである。
参考資料
二豊小藩物語(大分合同新聞社)
隻流館の挑戦(根上優著)
黒田三藩分限帳(福岡地方史談話会)
福岡県地域史研究 第三号(福岡県地域史研究所)
福岡県地域史研究 第十二号(福岡県地域史研究所)
双水執流略史(隻流館)
海の民 第四号(二神系譜研究会)
伊予二神氏と二神文書(福川一徳著)
舌間家譜(舌間宗益著)
郷土の先達 舌間宗益とその業績(紫村一重著 郷土直方第12号)
直方惣郭図(庄野家蔵)
日本柔術の源流 竹内流(竹内流編纂委員会編)
西日本文化No.441(西日本文化協会)
八幡浜史談 第37号(八幡浜史談会)
写真 臼木宗隆
平成22年3月28日記