双水執流発祥の地、吉野について

双水執流発祥の地、吉野について

臼木宗隆

 双水執流発祥の地として、奈良県吉野が通説となっている。これは隻流館の双水執流略史が基になっており多くの武道書にも転用されている。しかし私はこれに関して以前から少なからず疑問を感じていた。理由は、明治時代に書かれた略史だが以外と諸説があって、例えば舌間宗綱の高弟相羽蜘祐は紀州熊野の那智の滝を見て開眼したと言っているし、あるいは熊本の菊池川と言う説まであり、実際のところ実はよく分かってはいない。それよりもまして、現存する双水執流の江戸時代の伝書「双水執流腰之廻極意」には「芳野之山中究知必勝之利自二神流改双水執流・・・」とあり、芳野(吉野)の山中に籠って必勝の利を極めて二神流を改めて双水執流としたと書かれているが、大和国や吉野川等の記載がまったく見られない。

双水執流腰之廻極意 舌間宗綱 萬延元年

それが双水執流略史には、「大和国吉野山の深谷に三十七日間立て籠り諸流の奥秘中より善悪取捨し終に必勝の利を究めしが吉野川の清き流れを見て」と、これにより悟りを開いたことになっている。つまりいつの間にか吉野が「大和国吉野山」に変わってしまったのである。

 確かに現代人の感覚からすれば、一般的に桜の名所でも有名になった奈良県の吉野を指してしまう事も理解出来るが、ただこれも地域によってはやはり違うのではないだろうか。例えばこれが四国の香川県の人に吉野と聞けば多くの人は讃岐から流れている吉野川を言うし、佐賀県の人は吉野ケ里を言うはずである。つまり一口に吉野と言っても地域によってその捉え方は様々で、実は九州地方でも吉野と言う地名は複数ある。事実、荒唐無稽のように思われる菊池川説も調べてみると、菊池川下流に吉野と言う地域が存在しているのである。またこれ以外にも二神半之助の出身地大分県にも吉野と言う地域があり、必ずしも大和国吉野と限定されるものではない。また、略史にある「吉野の山中に三十七日間立て籠り」は「吉野の山中に三七日(みなのか)参籠(さんろう)す」と言う意味で、三七日(みなのか)は21日間の事、参籠とは祈願するために神社や寺院にある期間こもることを言う。つまり、奥深い山に籠って修行するのではなく、神社等に籠る事で悟りを開いたと解釈される。

 ところでこの「三十七日」と言う言い回しも現存する伝書には一切見ない。明治時代に略史を作った時付け加えられたものなのか、それとも当時まではそのような記載された古文書等があったのかは分からないが、興味深いのは同じ黒田藩に伝わった神道夢想流杖術の流祖夢想権之助が、筑前国竈門神社(かまどじんじゃ)に参籠し満願の三十七日に夢に二人の童子が現れ、「丸木を以て水月を知れ」と告げられたことから開眼し神道夢想流杖術を開いたと似ている。武術に関して諸国を巡りや参籠と言った言葉は、言わば常套文句的であるとも言えよう。

 さて話しを戻すが、吉野の記載でもう一つ興味深いものがある。それは大正4年に書かれた「武芸」と言う本で双水執流の三師範(九州生著)の中で、「福岡の吉野山に三日三夜の間籠って、山中に漲り(みなぎり)落ちる瀑布(ばくふ、滝の事)が飛龍の様な恐ろしい勢いで下がっているが、瀑下の大岩に当たったら最後、今までの勢いに似気(にげ)なく飛沫を飛ばしながら二つにわかれ、分かれたと思うとまた一つに合し、石に当たれば石をさけ、岩につっかかれば岩を廻って何の無理なく流れて行くが、この無理のない水も、一度洪水を漲らせる事になれば、家も田畑も何の苦もなくなぎさらって行くその恐るべき働き想到して、柔の道もこの水の働きの様にならねばならぬと頓悟(とんご、瞬間に悟る事)の目を開いてさて流名を双水執流と改めた」と書いてある。

 実に興味深いのは、この冒頭にある「福岡の吉野山」となっている点である。私は以前から双水執流は福岡で完成された武術と考えているが、それではいつどこで完成したかと言うことが問題であった。それを調べるため福岡、大分などを調査してきた。とくに福岡県直方市は重点的に調査をした結果、それらを裏付けられる極めて重要なものが発見されたのである。

 福岡県直方市に隣接している鞍手郡小竹町に御徳(ごとく)と言う地域があるが、実はここはかつて吉野山と言われていた。これに関しての古い記述としては、元禄年間に編纂された貝原益軒著の筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)にこのように書かれている。

「御徳村 吉野山  元和元年より同四年に至て立たる村也。此枝村に吉野村あり。村翁の説に、むかし大和國吉野より、吉野殿と云人来りて居住せり。故に村の名を吉野と云といへり。今案ずるに、吉野に南朝有て、肥後の菊池氏南朝に属し、此國の内までうちしたがえば、吉野より南朝の人ここに来り住るならん。吉野の蔵王権現をも其人勸請せしなるべし。初其社ありし所は、今は権現山と云。其後彼山をいかなる人か城を築きし時、蔵王権現を西の方の小山に写して、又此所を今吉野山と名づく。むかしの蔵王権現のやしろありし吉野山にあらず。今の吉野山の下、民家のある所を吉野と云。今は御徳の枝村也。蔵王権現と一社に妙見をも祭れり。」

 これにあるように江戸初期には、この御徳に吉野山があった事を明記している。つまり、双水執流の三師範の冒頭にある「福岡の吉野山」は存在していたのだ。そしてまたこの御徳は、二神半之助が舌間又七を頼って来た直方上境と極めて近い所に位置しているのも大変興味深い。そこで福岡県文化財保護指導員の牛嶋英俊さんと小竹郷土研究会の宮田聰さんの案内で平成22年4月御徳の吉野神社の調査を試みた。同時に、この御徳の隣の赤地(あかぢ)と言う地域に大祖神社と言うのがあるのでこれも調べてみた。

 この大祖神社には、江戸初期に筑前の浪士岩見重太郎と言う武術の達人がこの地に来てヒヒ退治をし、その真っ赤な血が池となり赤地となったと言う伝説がある。しかし私の個人的な見解としては、この大祖神社を見た時この土地の土が酸性度の極めて高い鉄分を多く含んだ赤土だった事から、私は以外と赤地の地名由来はこの赤土(あかつち)からの転化で「あかぢ」になり表記として赤地になったのではないかと直感的にはそう思った。

 さて吉野神社だが、今はこの地域を御徳(ごとく)と言っているが、江戸初期はこの地帯は広範囲で吉野と言われていて、そしてこの神社は吉野山と呼ばれていたと言う。もっとも本当の吉野山はここではなく、

これから5キロほど離れたところだったそうだが、江戸時代初めにここに移されたそうで、二神半之助が直方に来た承応頃はすでにこの場所である。

 太祖神社

古い吉野の記載のある石柱

 ところで、宮田さんの話ではその大祖神社の岩見重太郎伝説は違うと言う。本当は、吉野神社での伝説なのにいつの間にか大祖神社の伝説に入れ替わってしまったと言うのであった。この事実は大変重要な史実を示している。つまり何が重要かと言うと、この吉野神社は武術に関係している神社の証明になると言う事であり、実際に岩見重太郎が来たかどうかの問題ではなく、蔵王権現を祀った神社に武術に関係する伝承があったと言う事実が重要なのである。本当に岩見重太郎が来たとすれば、この近郊では吉野は武術の神社であると言うことを知った二神半之助が参籠してもおかしくないし、もっと極端に言えば吉野神社で二神半之助が修行していた事が伝説的に伝わって、それがいつの間にか江戸中期以降講談などで有名になった岩見重太郎にすり替わってしまったとも考えられるからである。

 吉野神社に祀られている蔵王権現は日本独自の仏で、そまれまでインドに起源を持つ仏とは違い、密教として伝承されて来ている。そして江戸時代までは、神社でありながら神道を主体とした神と、仏教の仏とが合体した神仏習合が普通に存在していた。それが明治になり明治政府による廃仏毀釈で神道と仏教の分離政策が行われるようになった。そのためこの吉野神社も安閑天皇(あんかんてんのう)を祖として大己貴神(おほあなむちのかみ)、少彦名命(すくなびこのみこと)、イザナギ命、イザナミ命を祭神として祀った。ちなみに、「隻流館の挑戦」(根上優著)と言う本で、「第三章双水執流の系譜と歴史」の中に舌間宗章が書いたと思われる九字「臨兵闘者皆陣裂在前」の図が掲載されているが、これも密教の特徴であり興味深い。余談だが、この図の九字の「・・・裂・・」は宗派によって違いがあり、一般的な密教で使われる「裂」に対して、真言宗は「・・・烈・・」に、天台宗では「・・・列前行」になる。

吉野神社の階段

吉野神社

権現大明神

以上の事から私は伝書にある「吉野」とは、この吉野神社ではないかと考えている。

 ところで双水執流の流名だが、二つの水の執(と)るところ、そして二つの水とは二つの川の事を意味していると考えられる。二神半之助は、二つの川を陰と陽に見立て、それが一つになる事で人間の真理を表現したのだろう。その事は、「双水執流腰之廻極意」に「当流之極意以五常為主」「表五剣裏五行視陰陽之刃筋」「受陰陽五行之習気」など五常(人の行うべき五つの道。仁、義、礼、智、信)や陰陽道の陰陽五行の記載が多く書かれている事からも解る。

 二神半之助は、それではどこでその川を見たのであろうか。それは、私が初めて直方を訪れた時、真っ先に目に飛び込んできたのが目の前に流れている遠賀川であった。そしてそれは直方惣郭図に描かれていた「二つの水の執る」川、遠賀川と彦山川を見た。二神半之助も初めてこの直方を訪れた時、やはり私と同じこの川を見たはずである。また先にあげた「双水執流の三師範」で、「一度洪水を漲らせる事になれば、家も田畑も何の苦もなくなぎさらって行くその恐るべき働き」と書かれている一文は、江戸時代にこの遠賀川は幾度となく氾濫し多くの犠牲者を出していた事実を彷彿させる。

直方惣郭図 (庄野家蔵)

彦山川(左)と 遠賀川(右)が直方で合流する

 この写真の遠賀川上流に御徳の吉野山、吉野神社がある。現実に伝書に書かれている吉野に関しては、その場所を特定出来るものは現存していない。だから大和国でも御徳でもないかもしれない。しかし、今まで調べてきた中での状況証拠としての推論で今回発表してみた。これを見て新たな証拠や異論がある方は是非御教授をお願いしたい。

平成23年1月14日